社会学という学び

 

 

「学び」

・・・伝達/習得/確認による授業の意味のなさ。

「参加、対話、協働、表現」という社会的相互行為、他者とともに公共性を作成する営み、それが「学び」であり、授業という場所に求められる。

 

講義であるより、ワークショップ演習方式。よって、出席して参加することが最も重要で、与えられる知識を習得することが授業の目的にはならない。たとえばすでに社会的不平等や差別について「みんなが使っている」「社会理論」をじぶんたちで批判的に検討することが目的になる。インプットよりアウトプット。

 

理論的言説の偏見・・・「普遍性」を追い求める。

 

日常ではひとは「個別性」を生きてしまい、その知識は「主観的」で妥当性をもたない場合がある。それに対して、理論は一般的で客観的、ひろい妥当性をもつのだ。

しかし、ひとは日常で十分に個別性を生きているだろうか。すでに日常の常識的な、世間的な、役割的な、知識を使って、世界に応答しているのではないか。ひとりひとりの個別を、むしろ生きていける仕組みこそ、追い求めるべきでないか。

 

「このわたし」が「いまここで」「このあなた」とあり、「このできごと、このかかわり」を生きていること。

 

語り合う形式・・・ディベート「議論」(排除や攻撃性の論理、一つの真理を仮想して、それに向かった競争・評価。真理という資源の奪い合い)。

それ以外の語り合い・・・告白、相談、世間話・・「対話」

 

語り合い(聞き合い)の多様性を殺さない。

「学的な語り」「学的な表現」・・・特定のポジションにある人間を特権化してしまうかもしれない。「社会学が不平等を問題にするなら、この事柄を自らにつきつける必要あり」「自己主張し、多く話す人。寡黙で内気な人。・・・見方を変えれば、寡黙で話さない人は、仲間の話を物理的にはたくさん聞いている人」

 

相談社会学・・・臨床社会学